21世紀の日本の教育
ブログ時評で団藤保晴氏が、教育問題に触れています。
学力低下を受けて、2002年からはじまった新学習指導要領の見直しが始まりそうだということです。
団藤保晴氏は、
今度の見直しで学校現場の混乱はさらに深まろう。総合的な学習に手を焼いていた先生は助かる。しかし、総合的な学習が得意で成果を上げていた先生まで、教科学習重視に引き戻されてしまう。欧米先進国に追いつこうとしていた時代までは、中央統制型の教育行政に意義はあったが、今となっては教育本来の姿、地方分権で現場の実情に合ったやり方に委ねるべきだ。学習指導要領なんかも要らない。教科書も自由に作り、教え方も自由。教科学習に強い先生はそこから入ればよいし、総合的な学習を駆使できる先生は生徒の「目覚まし」をして教科学習の必要性を判らせればよい。
と書いています。
おそらく教育というものは、いかなる方式がいいのか答えは1つではなさそうです。素晴らしいカリキュラムを備えたとしても、現場の教師の質が問題になります。
合衆国では衆ごとに教育内容が違うといいますし、学校ごとに指導法が異なるというのもいいことかもしれません。
日本でも明治期において1901年の「中学校令」が公布されるまで、現場の細かな指導については現場の校長に一任されており、授業の時間数も異なっていたという。まあ、歴史的にすべてにおいて、はじめから中央が管理していたというわけではないというたとえ話で。
そもそも、政府はどのような教育を目指しているのでしょうか。文科省は、数年前から「科学技術立国」を掲げていると聞きます。(そうだっけ?)「世界の工場」としての組み立て加工で外貨を稼ぐという構図がもう他国のものとなっているから、技術的に世界をリードしていこうよ。という趣旨の話だったと思います。そのためには、科学技術に興味を持つ子供たちを育てていくことが必要です。
総合的な学習の効果は、数字で計れないものがあります。これを一律に廃止するのではなく、維持する一方で基礎学力の増強を考えるべきです。と、思うものの、学級崩壊と呼ばれる現象は、tsurezure-diary:心のデフレスパイラル@小学校などを参照すると、
今の子どもたちの教育や現在の学校のあり方に何か一言ある人はいないっていうくらい、みんな意見があるようです。うちにも小学生がいますが、とにかく入学以来毎日学校が嫌で、給食食べるために通っているようなもんです。嫌でたまらない理由は、授業参観してよくわかりました。
クラス全体が落ち着きがない。先生が話をしている途中でタメ口で茶々を入れる。親も親で、授業中であっても平気で後ろでおしゃべり、しかも携帯鳴るし。(一応にらんでみたけど効果なし)
・・・深刻なようです。教育学の教授らのなかには、「現在の子供は、脳の構造自体がおかしい」と真剣な顔をして話す人が出てきていますが、うなずいてしまいそうになります。
義務教育で身につけるべき学力というラインがどの程度かは分かりませんが、大学に進学する場合は、それなりの基礎学力を持っているべきでしょう。しかし、基礎学力だけあれば、わが国の教育は安心だ、ということにはならないでしょう。学校の教育というのは答えのある問題しかありません。それ以外の答えのない問題(図画や作文)においても、生まれながらにして政治に長けているわが国の子供たちは、教諭の顔色を伺い、教諭の気に入るものを作ろうとします。
欧米では、いまだにアレクサンドロスが頻繁に語られます。グローバルした会社経営の中では彼から多くのことを学ぶことが出来ます。しかし、それ以外にも彼に学ぶことは多い。彼と彼の優秀な友人たちは、哲学者アリストテレスに学びました。将来の支配者となるために。そこでは、すべてのことに必ずしも正答があると教えたのではない、と聞きます。現実がそうであるように、問題に対処するあらゆる方法を検討した上で、より妥当なものを選ぶということ。同じ問題であっても、状況によっては別の対処が正しいことになります。アレクサンドロスたちは、アリストテレスの下で答えのない問題に立ち向かい、仲間との信頼関係と、「考える」という能力を身につけたことでしょう。
米軍では、1920年代末にジョージ・C・マーシャルがジョージア州フォートベニング陸軍歩兵学校の指導担当責任者に就任し、「ベニング革命」という改革を行ったそうです。ジョージアの山林で実践に即した訓練を実施し、そこでは野戦電話は使用できないようにされ、諜報活動の報告はわざと不正確で誤解を生むもので、いかにうまく作戦を立てても敵がいつも意表をつく行動に出たといいます。全く意味のない訓練に受け止められるかもしれないが、「正しい解答を知っているかではなく、独創性や判断力を持っているか」を重視する訓練でした。
過去、子供が多くいた時代。子供たちは、つるんで神社や公園に集まり、変な遊びを考えて遊んだり、秘密基地をつくったり、集団内でいざこざがあった場合には解決を迫られたりして、学校では教えてくれない独創性や判断力を培っていました。近年は子供も少なくなり、交通量の増大や子供が危険にさらされる事件も多発していることから、全く保護者なり学校なりの管理下にはない「子ども自身による自然発生的な集団」というものが少なくなりました。子供だけで遊ぶにしても、スポーツなりゲームなりの既存の遊びであり、自分で考案し自分でルールを変更できる独創性あふれる遊びではなくなっています。
基礎学力も独創性を培う教育も、すべての教育を学校に任せるのは不可能です。だからこそ、学校ごとの教育自由化や地域なり他の団体による副次的な教育が必要だと思います。
他の動物もそうですが、遊びのなかから学ぶことも多くあります。人には好奇心というものがあり、「なぜ、どうして、知りたい、教えて」という気持ちがあります。私が子供のころ、「なぜ、どうして」と思うことはいくらでもありました。なぜと思う対象のほとんどが、空はなぜ青いの?、太陽はなぜまぶしいの?、川の水はどこから流れてくるの? 春になるとどうして花が咲くの?といった自然のことでした。私の場合、田舎で育ち、小さなころから田んぼや畑で農作業を手伝いながら遊んでいたため、私のたわいもない質問に私の父は、なんでもかんでも丁寧に教えてくれました。私は、もっといろんなことを知りたいと思いました。学校の教科書には、もっと様々なことが書いてあり、図書館にはもっと様々な知識がありました。
現在、空はビルの向こうに、地面はアスファルトの下に、自然は目の届かないところに追いやられました。一方で、身近にある電化製品の仕組みでさえも、通常の親は子供にその構造を教えることができなくなっています。そのせいか、教育というものがはじめから幼稚園や学校の責任になっており、知識というものが、我々の住んでいる世界とはどこかかけ離れた「世間一般でそれが正しいとされていること」にされてしまいました。子供たちが、教育に喜びを感じない原因もどこかにあるはずです。
最近の子供で「勉強が好き」という子供を思い出してください、問題集を問いて先生に赤いペンで丸をうってもらう時や、テストで良い点数をとってほめられることに喜びを感じているでしょう。赤い丸がつかない子供や褒められない点数の子供たちは、さらに悪い方向へと陥っていくことでしょう。
子供たちに必要なのは「ゆとり」ではないのかもしれない。基礎学力は必要なものです。ですが、それだけではないはずです。
ものを知るということは、嬉しいことです。知ったことが現実で確認できたり、生かしたりできるのはさらにおもしろいことだと思います。この間、山村留学の子供たちを見ました。都会から山へ来た子供が、桜の枝をナイフで削り「燻製を作るんだ」と言っていました。その目は生き生きしていた。人は目で見、手で触れ、味わい、嗅いだものしか理解できない。教科書に書いてある文字だけでは、情報量が少なすぎる。
儒教など古臭いといわれるかも知れない。だが、引用しておこう。人の社会は進化したとしても、生物学上で人が進化するには、まだあまりにも時間が短すぎる。
「学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや。友あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍らず、亦た君子ならずや。」論語


1 Comments:
ずいぶん書いてらっしゃるけど、今イチ何がおっしゃりたいのかわかりません。
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