January 27, 2005

私と大学

内田樹の研究室: 首都大学東京の光と影

クビダイのことが語られています。
「私には『意味ぷー』であった」という言葉が印象に残りました。
クビダイのことは勉強不足で詳しく知りませんが、公立が効率になるのでは、と懸念されているようです。

西沢潤一新学長の言葉の引用では、宮沢賢治と新渡戸稲造が世界思想に影響を与えているような言い回しがありますが、「意味ぷー」といっても過言ではないでしょう。石原都知事の話も支離滅裂ですね。

これに対し、内田氏は、言葉尻をとって批判しています。批判対象は言葉尻ですが、クビダイに対して大きな危機感を抱いているようです。そこまで言うのなら、もう少しスマッシュヒットを狙って欲しいものです。

私も、クビダイに不安を感じます。まず、この大学は研究機関?それとも生徒養成機関?

基本理念ですが、「都市環境の向上」「ダイナミックな産業構造を持つ高度な知的社会の構築」「活力ある長寿社会の構築」の3つを掲げて大都市の人間社会の理想像としています。
で、どうもクビダイはそれを実現する組織であるらしい。

もはや、教育でも研究でもなさそうな感じです。

「ダイナ~」は文章の意味が分からないですが、理想とするイメージは汲み取ることが出来ます。「ダイナミックな産業構造の構築」と「高度な知的社会の実現」の2つに分ければいいと思うのですが、くっつけないと気がすまないのでしょう。

20世紀はともかく、21世紀に訪れる産業構造は、「ダイナミックな」ものではない。いくつもの産業が網の目のように関わりあう産業構造になるような気がします。
ひとつの大きな業種で多くのことをするより、比較的小さな業種が焦点を絞って事業をし、他の事業に焦点を絞っている別の業種と密接な関係を持つことが望ましいと感じます。
多様な価値観と変化への対応をするためには、自分が何ものであるかはっきりさせ、柔軟な動きが取れる体勢を整えておくことが必要だからです。

「高度な知的社会」とは何を指すのでしょうか。まあ、世界中の最新技術や知識が集まってくる。それを学び広めていこう。という趣旨ではないかと思います。
これも物足りない。
研究機関には研究機関として、人類全体の財産となる知識や研究成果を期待したいです。
既存知識は、大学でしか手に入らないものではない。そして知の探究者は「高度な知的社会」を作り出すものではない。

「活力ある長寿社会の構築」や「都市環境の向上」は都行政の役割ではないのだろうか。教育・研究機関の成果として結果的にそれらに寄与するのと、当初からそれらをを目的として教育・研究するのとは大きく意味が違う。

結論を言えば、
クビダイは都の利益のための機関であって、教育機関でも研究機関でもない。効率の評価基準というのは、予算に対する都への貢献度となるだろう。そこには、大学特有のリベラルさはないし、知への探求精神も見られない。もはや大学として呈をなさない。

私は学部しか出てないが、私にとって大学はハコだった。そのハコのなかで、頭のてっぺんからつま先まで自由を吸って吐き出していた。ある時は、「ここ火気厳禁なんです。やめてください」といわれるまで敷地内で焼肉をしたり、ある時はありもしないサークルのビラを作成して敷地内のいろんな棟に貼って回ったり、ある時は図書館で自分の研究分野とは全く関係ない書物を読み漁ってみたり、音楽サークルに入っていないのに意味もなくギター引き語りやタップダンスを披露したり、かわいい子がピンで講義を受けているときにわざと隣に座って食事に誘ってみたり、教授の講義とは関係ない時事ネタの話題に感心したり、学部が全く違う先輩と世の情勢について議論したり、と毎日が発見と驚きと馬鹿みたいな失敗ばかりの日々だった。

まあ、大学での経験は今の自分にも社会にも役立っていないわけだが・・・。

大学が変わるべきだとしても、知の探求という役割を持った研究機関としてあるべきであって、クビダイのような姿ではないとは思う。

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